目次
表現の自由によって保護される表現
ここでは、表現の自由で保護されるか否か、及び保護される範囲が問題となる主な表現を紹介する。
性表現
刑法175条は、わいせつ文書の頒布(はんぷ)を禁止している。しかし、わいせつな文書でも、個人の思想や価値観を表現したものであることがある。そこで、表現の自由と、刑法175条の規制との衝突が問題となることがある。
【関連判例】
- チャタレイ事件(最大判昭和32年3月13日)
名誉棄損的表現
名誉権は幸福追求権として保障されると解されている。また、名誉侵害の責任については、民法723条や刑法230条が規定している。
しかし、名誉権を過剰に保護すると、表現行為が委縮する。例えば、公職である政治家の名誉権を過剰に保護すれば、政治家の汚職を暴くための取材・報道をためらうことになりかねない。そこで、表現行為と名誉権の保護をいかに調整するかが問題となる。
刑法230条の2第1項では、事実の公共性、目的の公益性及び事実に対する真実性の証明があれば、刑法230条の名誉棄損で処罰されないと規定されている。また、この要件は民法上の不法行為としての名誉棄損の要件でもあると解される。
この名誉棄損の要件を具体的に説明する。まず、事実の公共性とは、表現する事実が公共性のある事実であることを意味する。例えば、政治家の汚職を暴く記事を投稿することは事実の公共性が認められやすい。
次に、目的の公益性とは、表現する目的が公益のためにされることを意味する。例えば、政治家の不倫を暴く記事で、不倫相手に嫌がらせをする目的で記事を投稿することは、目的が公益のためとはいえない。
最後に、事実に対する真実性の証明とは、表現する事実が真実であることを証明することである。ただし、真実性の証明は必ずしも容易ではない。そこで、判例は、夕刊和歌山時事事件(最大判昭和44年6月25日)において、次のように判事した。
「事実が真実であることの証明がない場合でも、行為者がその事実を真実であると誤信し、その誤信したことについて、確実な資料、根拠に照らし相当の理由があるときは、犯罪の故意がなく、名誉毀損の罪は成立しないものと解する」。
【関連判例】
- 月間ペン事件(最判昭和56年4月16日)
プライバシーを侵害する表現
プライバシー権は、幸福追求権で保障されると解されている。なお、プライバシー侵害に関する刑事罰はないので、プライバシー侵害に対しては民法の不法行為責任を追及することになる。
しかし、プライバシー権を過剰に保護すると、表現行為が委縮する。そこで、表現行為とプライバシー権の保護をいかに調整するかが問題となる。ただし、プライバシー侵害の有無については、名誉棄損と同じ要件で判断することは妥当でない。なぜなら、プライバシー侵害とされる事実について、事実に対する真実性の証明がされればプライバシー侵害がより大きくなるからである。そこで、不法行為の責任を負うほどのプライバシー侵害か否かを判断する場合は、事実の公共性に重きを置いて判断すべきであると解される。
【関連判例】
- ノンフィクション「逆転」事件(最判平成6年2月8日)
営利的表現
営利的表現とは、企業広告などである。営利的表現は経済活動の一部であるので、自己実現の価値及び自己統治の価値との関連性が低い。よって、表現の自由で保障されるべきものでないとも思える。しかし、国民が消費者の立場で、営利的表現により様々な情報を受け取ることを考慮すれば、営利的表現は表現の自由で保障されるべきだと解されます。
もっとも、営利的表現は、自己実現の価値及び自己統治の価値との関連性が低いので、思想や価値観などの非営利的表現より権利の重要度は落ちると解される。
選挙運動の自由
選挙において有権者が候補者を選択するには、候補者による言論や出版が必要不可欠である。そこで、選挙運動の自由は表現の自由で保障される。しかし、選挙運動が全く自由で行われれば選挙の公正が害されることになる。(例:有権者の買収)
そこで、選挙運動の自由は一定の制約を受ける。具体的には、公職選挙法は選挙運動について規制を設けている。
ここで、この公職選挙法による規制が21条1項に反しないかが問題となる。判例は、公職選挙法が規定する戸別訪問の禁止を21条1項に反しないとした(戸別訪問の禁止/最判昭和56年6月15日)。
表現の自由の限界
二重の基準論
名誉棄損的表現やプライバシーを侵害する表現においては、表現行為が他人の権利を侵害することになりうるということであった。よって、表現の自由を無制限に認めることはできない。そこで、表現の自由にも一定の規制が必要となる。
もっとも、表現の自由を中心とする精神的自由の規制は、経済的自由の規制もより厳しい基準で合憲性を判断すべきであると解されている。なお、「より厳しい基準で合憲性を判断」するとは、「規制がより違憲となり易い」ことを意味する。そして、このような考え方を二重の基準論という。
この二重の基準論が用いられる理由は、経済的自由に対する規制は民主政の過程で是正可能であるのに対し、精神的自由に対する規制は民主政の過程そのものが規制されて、民主政の過程での是正が困難となるからである。
つまり、二重の基準論は、国家の行為の合憲性を判断するために用いられる考え方である。すなわち、二重の基準論は合憲性判断のための道具といえる。
ところで、国家の行為の合憲性を判断する際は、まず形式的審査をした後、次に実質的審査をする。そこで、次に国家の行為の中でも、法令による表現行為の制限に関する、形式的審査と実質的審査の中身をみていく。なお、二重の基準論は「実質的審査」の中で用いられる道具である。
表現行為を制限する法令の形式的審査
表現行為を制限する法令の、形式的審査において重要なものは、明確性の原則である。明確性の原則とは、法令による表現行為の制限の要件が、法令中に明確に示されていなければならないという考え方である。
明確性の原則が求められる理由は、内容が不明確な法令は次の危険を有しているからである。
- 行政の恣意的な運用を許す危険性。
- 国民の表現行為を委縮させる危険性。
※明確性の原則は罪刑法定主義(31条)においても要求される。
表現行為を制限する法令の実質的審査
審査基準
実質的審査においては、違憲審査基準を立てて判断することがある。なぜなら、人権同士の衝突が問題となっている事案では、違憲審査基準という基準を立てなければ、「どっちがかわいそう」や、「どっちが我慢すべき」という裸の利益衡量になってしまうからである。
そして、違憲審査基準を立てる場合は、権利の性質と規制態様に着目する。すなわち、制約される権利の重要度が高ければ高いほど、その制約について厳しい基準で審査すべきである。また、その制約が強ければ強いほど、厳しい基準で審査すべきである。例えば、生命・身体に対する規制の審査基準は、財産に対する規制の審査基準よりも厳しくなる。また、内容規制の審査基準は、内容中立規制の基準より厳しくなる。なお、「厳しい基準」で審査されれば、規制が違憲となりやすい。
内容規制と内容中立規制
内容規制とは、表現のテーマや内容に着目した制限である。(例:政府見解と異なる意見の表明の禁止)
これに対し、内容中立規制とは、表現の時・場所・方法の制限である。(例:集会の時間の制限、ポスターの掲示場所の制限)
表現行為を制限する法令の実質的審査では、その制限が内容規制か内容中立規制かを検討する。内容規制は表現内容そのものをみて規制するので、人権侵害の態様が内容中立規制より強い。
事前抑制と検閲の禁止
事前抑制
事前抑制とは、表現行為を発表前に規制することである。事前抑制を認めると、国家権力により表現行為が網羅的に規制される恐れがある。よって、事前抑制は21条1項を根拠に原則禁止されるべきと解される。
しかし、名誉棄損的表現やプライバシーを侵害する表現が一旦世に出されると、被害者の被害回復の負担は大きなものとなる。
そこで、判例は、北方ジャーナル事件(最大判昭和61年6月11日)において、事前抑制について次のように判事している。
「事前抑制は、表現の自由を保障し検閲を禁止する憲法21条の趣旨に照らし、厳格かつ明確な要件のもとにおいてのみ許容されうる」。「表現行為に対する事前差止めは、原則として許されない」。但し、表現行為の対象に事実の公共性がある場合でも、「その表現内容が真実でなく、又はそれが専ら公益を図る目的のものでないことが明白であつて、かつ、被害者が重大にして著しく回復困難な損害を被る虞があるときは、・・・例外的に事前差止めが許される」。
【関連判例】
- 「石に泳ぐ魚」事件(最判平成14年9月24日)
検閲
定義
21条2項前段は検閲を禁止している。検閲の定義については諸説ある。検閲の定義について諸説があるのは、次のものが問題となるからである。
- 検閲の主体
- 検閲の対象
- 検閲の時期
- 検閲が許される例外の有無
検閲の主体
検閲=事前抑制と捉えれば、検閲の主体は公権力となる。
これに対し、検閲の概念を狭く捉える説によれば、検閲の主体は行政権と解される。
検閲の対象
検閲=事前抑制と捉えれば、検閲の対象は表現行為全般となる。
これに対し、検閲の概念を狭く捉える説によれば、検閲の対象は思想内容の表現行為と解される。
検閲の時期
検閲=事前抑制と捉えれば、表現行為の規制が、表現行為を受領するまでにされれば、検閲となる。
これに対し、検閲の概念を狭く捉える説によれば、表現行為の規制が発表するまでにされれば検閲となる。すなわち、検閲の概念を狭く捉える説では、表現内容が、発表後から受領までの間に規制された場合、事前抑制にはなり得るが、検閲にはならない。
検閲が許される例外の有無
検閲=事前抑制と捉えれば、検閲が許される場合があるという考えに親和的である。
これに対し、検閲の概念を狭く捉える説によれば、検閲は絶対的禁止で、例外はないという考えに親和的である。
判例の定義
判例は、税関検査事件(最大判昭和59年12月12日)において、検閲について下記のように定義した。
「『検閲』とは、行政権が主体となつて、思想内容等の表現物を対象とし、その全部又は一部の発表の禁止を目的として、対象とされる一定の表現物につき網羅的一般的に、発表前にその内容を審査した上、不適当と認めるものの発表を禁止すること・・・を指す」。
判例の定義によれば、検閲は事前抑制の一部という位置づけになる。そして、事前抑制の禁止は21条1項で、検閲の禁止は21条2項前段で保障されている。また、検閲が許される例外はない。
【関連判例】
- 第1次家永教科書事件(最判平成5年3月16日)
通信の秘密
通信の秘密は、電話やメールなどの特定の人の間のコミュニケーション保護を目的するものである。もっとも、一定の犯罪捜査のために制約されることがある。(例:通信傍受法)